縄文土偶
縄文土器
埴 輪
インカ
マ ヤ
エジプト
オリジナル
夢工房
連絡先
リンク
home


縄文のロマンと謎

●起源はいつか
現在、縄文人という言葉は縄文土器を使う日本人に限定して用いられているので、日本原始人がいつから縄文土器を使ったかということによって、縄文人の起源の年代とか、経路とかが決まることになる。そのように限定した場合、縄文以前から日本列島に住んでいたいわゆる化石人と縄文人とは、体質的にはっきりつながっていることが最近証明された。また、その化石人の終末期に、彼らのなかに縄文前の土器を使う文化が始まっていたということもわかってきている。厳密にいって、どこから後が縄文人かということは決めかねるが、少なくとも日本に二万年上前から住みついていた化石人が、12,000年ほど前に土器を使い出し、やがて一万年ごろ前から、土器に縄文をつけだしたわけである。そういう意味で縄文人の起源は、約一万年あまり前ごろからだといってよいであろう。しかもこれは人がたというよりも、従未の化石人の文化が進んで縄文人になったといえよう。

●縄文時代はいつまでか
縄文土器を使った年代を縄文時代とするならば、起源は約一万年少し前ぐらいからで、終りは西日本と東日本とで非常に違っている。これは一つの文化現象をいうのであって、人類をいうのではないためである。西日本では少なくとも紀元前五、六世紀ごろに縄文土器が消えていき、中部日本では、近幾地方を中心として、紀元前2、3世紀に、関東地方では、紀元ごろには消えていつている。しかし、東北地方には、ずっと後までのこっていて、岩手、秋田、青森県には、縄文土器のカメから中国の宋銭が出土した例があり、このことから平安初期までところによっては縄文士器を使っていたことがわかる。北海道では室町時代に、まだ縄文土器系のオホーツク式土器を使っていた例がある。したがって縄文時代の終りがいつまでかというと、一概にいうことができず、紀元前5、6世紀ごろ西日本からだんだんに終わっていって中世に縄文土器が消えた、いいかえれば縄文時代が終わったといえる。

●人口はどのくらいか
日本には10万あまりの縄文時代の遣跡がある。しかし、これは約一万年ぐらいの間の遺跡数なので、同一時に何個の遺跡があったかということは、たいへんむずかしい問題である。おそらくいちばんたくさん縄文村のあったときで、まず2000か所、ぐらいであろうか。そのなかの一つの村を掘ると、堅穴住居の跡が少なくとも20戸以上出るが、同時に住んだ家というのは、せいぜい5、6か、10ぐらいだと思われる。床面積から計算して、一戸の家に何人ぐらいが住んだかというと、せいぜい5、6人から10人ぐらいと思われる。日本全体の縄文人口の最大限は約200万人、最少に見積もれば40万人ぐらいだったと考えられる。

●終末はどうなつたか
縄文人の終末というより、縄文文化の終末とおき換えたほうが適切であるが、縄文文化は、自動的に次第に弥生文化に変わっていったといえる。縄文土器が終末期になってくると、だんだんと無文で、赤焼きのものがふえ、器形も整ったものになって弥生化していく。紀元前数世紀のころ、中国文献の三代とか、あるいは奏の始皇帯のころとか、前漢とかが興亡をくり返し、中国大陸における漢民族の大移動がだんだんと日本に、人および文化として影響を与えるようになったのである。その結果、縄文文化の石器時代人が次第に弥生土器をつくり、耕作とか、全属をもつ文化に変わっていったと思われる。したがって、縄文人の終末というものは、結局、姿を変えて弥生人に変わったという表現が適切といえよう。

●村や集落はいつごろからあつたか
本来、人間も動物的な生活本能をもっている。特に人間は頭が大きく、そのために立ちあがらなくてはならないので、全身を敵にさらすいちばん危険な姿勢をする動物である。そのためには個人では暮らせず、どうしても集回生活をするはめになる。人間の集団の単位である村の大きさが、結局、人間の生活の安全と食料の量とを決めている。人間は出現当初から集団生活をしており、それが土地に土着すると集落になるわけで、縄文人は、縄支文化起源当初から集落をつくっていたといっていいと思われる。

●行動半径はどのくらいか
縄文人の行動半径は生活的行動半径と、物資伝播の行動半径(リレー式行動半径)に分けて考えられる。生活的行動半径は日常的にはせいぜい6キロぐらいで、食料を得る生産的行動半径は、それの大体4、5倍、すなわち日帰りできる極限で、キャンプして生産に当たった場合もあろうが、最大限30〜40キロぐらいの範囲といえよう。しかしリレー式行動半経は、例えば新潟県のヒスイが鹿児島県で発兄されたり、信州和田峠の黒曜石が岐阜県にいったりしていることから、数百キロから千キロ近いものもあったといえよう。

●一夫一婦制か
縄文時代の男女比は、ほぼ同数であったが、だからといって、当時一夫一婦制であったかどうかははなはだ疑問である。資料としてのこっている古代の習慣に照らし合わせると、むしろ、多夫多妻制の色彩が濃い。つまり、一人の男性が多数の女性のもとに通い、その女性たちもまた、複数の男性と交渉をもつといった婚相開係であったようである。ただし、その場合、村藩を越えて妻や夫をもったとは考えられず、村落内においてのみ、そのような重複複数婚があり得たと思われる。一夫一婦制の形式が定まるのは、ずっと後世のことで、平安時代ですら多夫多妻制であった。

●何歳ぐらいで出産したか
縄文人が、何歳ぐらいで子どもを産んだかは不明である。しかし、これを推定することはできる。文化や技術は、ある程度の世代差がなければ伝承しないものである。現代の私たちの平均世代差は30年であるが、縄文時代のそれはもう少し狭いと思われる。しかし、少なくとも20年以上なくてはならない。縄文人の平均寿命をおよそ40歳、世代差を20年とすれば、遅くとも15、6歳で出産していなければ、文化の伝承という現象は続かない。したがって、縄文人の出産年齢は、15、6歳かその少し前であったということになる。早婚であった彼女らは、おそらく受胎率が高く、たくさんの子どもを産んだにちがいない。ただ、その子どもたちの成長する率はきわめて低かったと思う。江戸時代の将軍家においてすら、10歳以上まで育ったのは、出生児の半数であったのである。原始社会ほど幼児の死亡率は高い。それは衛生知識がとぼしいためであるが、縄文時代もその例にもれなかったはずで、おそらく三分の二までは幼時に死亡し、生きのこった子どもは、三分の一ぐらいであったと思われる。

●寿命はどれくらいか
縄文人は全体に健康な体をしていたといえる。それは酸性が抵く、中性体質だったため骨の組織がよく発達していたことからもわかる。また、歯の磨耗が少ないにもかかわらず、40代ぐらいで死亡している例が多い。50遇ぎた人骨は非常に少なく、60以上は絶無である。それゆえ、縄文人は健康であるが短命だったといえよう。健康であれば長命だという考え方は、文明社会の通念で、これは人間が人間管理を完全にやっているからなのである。自然生活をする人間は、疫病の流行、あるいは突然の災害、特に冷害による食料の欠乏などで、健康であるにもかかわらず死ななければならないことがある。したがって、縄文人の寿命は、おおむね最終年齢が37、8歳から40歳ぐらいまでと推定される。

●死亡原因は何が多いか
縄文人の死因は何がいちぱん多いかといえば、成人に関してははっきりしない。というのは、のこされた骨にしるされるような疫病は皮膚病系以外にはわからないためである。ただ骨組織が酸性体質になって崩壊した例がないので、縄文人に結核は少なかったといえる。衛生知識欠如による幼児死亡が、圧倒的に多かったが、その難問を突破して成人した者は、死ぬ間際まで歯が健康であることから、おそらく不慮の事故死(狩猟に出る成年男性に多い)とか、流行性疾病による死、あるいは食料欠乏による餓死、出産時における母子ともの死、などが多かったのではないかと思われる。

●埋葬はどんな形式が多いか

「葬る」という言葉は、「抛る」からきている。抛るとは、捨てると同義語である。これからもわかるように、はじめは死体はうち捨てられていたのである。その証拠に、ごみ捨て場である貝塚からは、幾体もの人骨が発掘されている。しかし、やがて人間的愛情から、特定のごみ捨て場の一部に穴を掘り、その中に死者を大事に捨てるという形が起こってきた。これが埋葬の起源である。埋葬の形式は、はじめは死者の体を折り曲げ、これを包むか、くくって葬る屈葬であった。これはおそらく、人間を死にいたらしめたのは悪霊のしわざである、その恐ろしい悪霊が死体から離れ、再びこの世に現れ出ないように、という願いからこのような形がとられたのであろう。やがて、悪霊を鎮める方法や、死体と悪霊とは別個のものであるという考えが広まって、肢体を伸ばしたまま葬る伸展葬に変わってきた。しかしそれでもなお、死者が生まれ変わってくるとき、悪霊もともについてくるという考えがあって、死者の頭をつぶしたり、頭に壺をかぶぜたり、石を頭や胸に載せたりする埋葬法もみられる。箱式の棺に死者を入れて葬る風習が起こるのは、縄文時代の終りになってからである。

●縄文土器はだれがつくったか
縄文土器とまったく同じものを実験的に製作してみると、わりあい簡単につくることができる。しかも、習練すればするほど、上の練り方、模様のつけ方の枝術も上達し、丈夫で精巧な土器がつくられるようになる。そこで考えられるのは、縄文土器は家庭分業でつくられ、そのつくり手は女性であったということである。女性が土器をつくった、という証明は何もないが、土器の製作は、世界共通に女性の家庭作業であったし、また、縄文土器に見られる美しい模様の表現は、女性の繊細な神経と技術があってはじめて成功したと思われる。ただ、陶器と違い土器はだれにでも簡単につくれるので、女牲がいなかった場合には、男性が製作にあたったこともあったであろう。一つの村落から出土する土器の中には、形も模様もきわめて精巧なものと、非常に簡素で手づくりに近いものとがある。これは、特定の技能者のつくったものと、それ以外の一般の人がつくったものがあることを示しているのではないだろうか。

●毒矢で殺した動物がなぜ食べられるのか
縄文時代の狩猟はトリカブトの毒を矢に塗って用いたと思われる。トリカブトは、シベリアから日本を通って北アメリカに広がっているアルカロイド系の毒草で、この新根の皮には、猛毒が含まれている。これは経口毒として4グラムぐらいまでなら飲んでも致死量にならないが、4グラムを超えると致死量となる。ただし傷口から入ると、そう毒といって0・4グラムで体重50キロの動物でも、呼吸中枢を麻痺させて約17秒で死にいたらしめる。それほどの猛毒でありながら、トリカブトを塗った矢を撃ちこまれた動物が死ぬまでに、その毒は全身に拡散され、局部に残留する毒は希釈されて、著しく弱まってくる。さらにこの毒は時間が経過すると、だんだん酸化して無毒化する性質もある。したがってトリカブトの毒を使ってとった動物を2時間ぐらい後になって食べれば、まず無毒に近いといえる。

●イヌのほかに家畜がいたか
イヌは大事に埋葬されているくらいだから、食料にされなかったと思われる。ごくまれに馬の骨が出土しているので、馬も家畜と思われるが、いまのような役獣としての馬ではなくて、食用獣であると同時に霊獣とでもいったような神聖な動物として一部の小型馬が入っていたようである。弥生時代になると、いまの蒙古馬のように大きくなってくるが、石器時代の馬はわりあい小さかった。イヌと馬は家畜として存在したことは、はっきりしているが、牛や羊はまだ発見されていない。ネコは山ネコがいるが、これは家蓄ではなく、野生のものである。家畜としてのいまの家ネコは、元来エジプトネコの系統で、これが文学として最初に登場するのは平安時代の『源氏物語』であるから、石器時代にはいわゆる家ネコはいなかった。

●寒暑はどのように調節したか
人間は、文化の一要索として、署さや寒さに対応する技術をもっている。その一つは、家屋によって外気を遮蔽することであり、さらには、衣服などによって、肌に及ぼす気温を人工的に調節することである。縄文人は、地面を掘り下げ、これを屋根で覆って住居としていたが、この堅穴住居の中は、関束地方で夏は摂氏25度ぐらいでさほど暑くない。夏の暑さは輻射熱によるものだが、竪穴ではその輻射熱が伝わりにくいからである。ただ、窓がないので、中は薄暗い。薄暗い建物ほど夏涼しく冬は暖かいといわれるが、堅穴の中は、冬はだいたい4度である。縄文人がこういう堅穴に住んでいたのは、自然への順応の知恵であったのだろう。縄文人が衣服をつけていたことは、出土する土偶によって知ることができるが、現在のように目の細かい布地を織っていたとは考えられない。したがって、寒い季節には、それを補うために動物油(植物の種子から搾油するようになるのは、ずっとのちの時代であろう)を体に塗って寒さに耐えていたものと思われる。この方法は、現在エスキモーや南米のフエゴ島の人の間に行われているので、縄文人にも、そのような体温の発散を防ぐ枝術があったと想像されるわけである。もちろん、たき火が暖房になったことはいうまでもない。

●食事は一日何回か
食事の回数を決め、ある一定の時間ごとにとるようになるのは、農耕社会になってからである。農耕社会では、日照時間が生産労働時間であるから、日没後は食事を必要としない。しかし、狩猟社会では、日没後のほうが獲物をとりやすいこともあるわけで、日照時間と労働時間の関係はない。したがって、食事の回数などは決めず、空腹に応じて随時食事をとったことであろう。ときには、獲物がなくて何日も食をとらず、空腹に耐えなければならないこともあったにちがいない。つまり狩猟社会では食事の回数はきわめて不規則であったといえる。ただ、最近は、縄文中期に一種の農耕が始まったとされている。もしそうであるならぱ、昼間の労働が習慣づけられるから、食事も一定の時間にとるようになったであろう。その場合、食事の回数が多ければ、それだけ労働時間がさかれ、少なければ作業能力が下がるので、やはり一日に二回ぐらい、午前…日の出と、牛後…日没に食事をしたのではないかと思われる。なお、食事の回数がはっきり決まるのは、6、7世紀以後のことである。そのころの文献に「朝餉」、「夕餉」という言葉が出てくるが、これは、朝夕の二度の食事をさしている。この一日二度の習慣は、いまから300年ほど前まで続いていた。

●味つけはどうしたか
縄文人が塩を用いていたことは、長野県から出土した縄文中期の土器の中に、塩化ナトリウムの痕跡が検出されたことによって証明されている。しかしこれは味つけ用という以前に、健康維待、内燃焼増加のための貴重なものであったと思われる。当時の味つけは単調で、塩味が最高の旨みであったと思われるが、塩味以外のものを強いてあげれば、甘味では、木の実や澱粉を発酵させたアメ、ミツ、それに甘葛というつる草を煎じたアメ状の甘い汁などがある。

●食料はどのように保存したか
各地の縄文遺跡、特に中期の遺跡から貯蔵庫の穴跡がみつかっているが、この中には、多量のドングリやトチの実が詰まっているものがある。この貯蔵庫に蓄えられる木の実の量は、一戸に10人が生活すると仮定すれぱ、せいぜい1か月ぐらいのものである。これだけでは、飢難や獲物がとれなくなったときには飢え死にしてしまうからこのほかにも保存食をもっていたはずである。それは多分、シカやイノシシなどの肉やサケ、スズキなどの魚類を天日に干したり、燻製にしたものであろう。この保存食が、新鮮な食料の欠乏したときに縄文人を養ったと思われるので、縄文時代の主要な食料保存法は、天日乾燥法と燻製法であったということができよう。そのほか、植物性の食料では、ヤマノイモなどは土中に埋め、木の実はネズミという大敵から守るために土器に入れたり、貯蔵庫を掘ってその中に入れ、木皮や土などをかぶせて保存していた。 

●パン状の炭化物は何を物語るか
長野県の井戸尻遺跡で、わらじのような形をしたパン状の炭化物がいくつか発掘されたが、これは、澱粉をこねて焼いたものである。その澱粉がなんであるかは不明だが、一部粉状になっていないものの中に、山笹の実がみられるから、多分、木の実などをつぶしてつくったものであろう。木の実をつぶしてこね、堅パン状に焼いて食したことはわかるのだが、なかには燻製にしたものもあるので、あるいは保存用につくられたものであろうか。いずれにせよ日本にも粉食食料があったことがわかる。その点では、ヨーロッパの穀物食糧習慣と似たものがあったのだということが、ほのかではあるが証明されるような気がする。

●遣跡でみつかる種子は何が多いか
遺跡から発掘された種子の研究、花粉分析によると、その環境を構成する植物相がすべて含まれている。現在みつかっている木の実のうち、肉眼でみえるもので最も多いのは、トチとクリ、次いでクルミ、カヤ、ドングリなどの木の実類である。これは、皮が堅く、比較的保存されやすかったからである。ヒョウタンの種子もだいぶ出ているが、これは、著い時分にはその果実を食ベ、大きくなったものは、皮を容器として使用したのであろう。そのほか、最近ではヒエやアワ、ソバがみつかっているし、秋田県の遺跡からは、ダイズが発掘されている。

 ●貝塚の貝や骨は何が多いか
貝や動物の種類は非常に多い。現在わかっているものでも、貝類170種類、魚類78種類、哺乳動物120種類、鳥類8種類ほどにのぼつている。貝塚で最も多くみつかっているのは、砂浜でとれる貝ではアサリとハマグリ、岩礁でとれるものではアカニシである。動物ではシカの骨がいちばん多く、イノシシがそれに次いでいる。また、タヌキやムササビ、イタチなどの骨も発掘されている。なかには、カラスなどのように現代人が食用としないものもみられる。ウニなども当時すでに食べられていたことがわかるし、イカの甲羅がのこっているところをみると、これも食していたのであろう。とすれば、タコも食用とされていたと想像される。

●酒を飲んだか
酒は、原料を糖化発酵してつくるものである。ブドウやリンゴなどには、果糖という糖分が含まれているので、放置しておくと自然発酵して、ブドウ酒やリンゴ酒ができる。また、ヤマノイモのような澱粉質のものは、かびなどが加わるとすぐ糖化するので、ある一定の温度で保存されると、発酵して自然に酒ができあがる。このように、天然現象としても酒の発生はあり得るので、縄文人も食料を加工したり、蓄えている間にその現象を知り、やがて人工的につくりあげていったと思われる。しかし、それがどういう酒であったかはよくわからない。古代には、酒は食うという表現があるように、飲料というよりは食べ物に近かった。酒が完全な液体となって飲まれるようになったのは、六世紀になってからである。したがって、縄文時代の酒も、糊状の食べ物的なものであったと想像される。

●竪穴住居はいつごろからつくられたのか
竪宍住居が登場するのは、縄文文化ができてからで、それ以前の無土器文化のころは、たき火など行われたが床を掘っていないので平地住居であった。竪宍住居は、北太平洋圏といって太平洋の北側をめぐる日本、沿梅州、満州、シベリアから、北アメリカの太平洋岸の地域にまで広がっていた。なぜ竪穴を掘るかというと、そのいちばん大事なことは屋根の補が地面につくといブことにある。これは、上や横からの圧力に強く、耐風、耐雪に優れるとともに、軒先が地面についていると、夏は涼しく、冬は暖かい。そういうことから竪穴住居がつくられたと思われる。

●竪穴住居はどのくらいもつか
竪穴住居はいまつくると耐久力はせいぜい、5、6年であろう。そのぐらいで屋根のカヤから腐蝕して雨漏りするし、柱の下が腐りはじめ結んである藤蔓がゆるんでくるはずである。けれどもこの中に人が住んで絶えずたき火をするなら、たき火から出る木材タールが気化し、屋根用材や垂木、柱用材に浸透し防腐作用をすることになり、多少の補修を加えればおそらく20年ぐらいはもつであろう。

 ●どんな体格か
縄文人は、現代の日本人よりも背が抵く、短頭であった。短頭とは丸頭のことで、丸頭の人は、必ず丸顔である。そうしてみると、縄文人は現代人に比ベ、あまり格好がよいとはいえない体型であったようだが、その待徴は、土偶によく表現されていると思われる。なお、土偶で見ると女性の乳房は大きい。これは、土偶が安産を祈る呪術に使われるものであったため、乳房や下腹部が誇張されたのである。一般に、短身短頭の人間は、乳房があまり大きくない。大きい乳房を円錐乳、低い乳房を皿状乳というが、今日の日本女性は、平均すれば皿状乳である。これから推測すれば、縄文人もまた皿状乳であったと思われる。ましてや、乳房の垂れ下がった山羊乳などはなかったであろう。

●縄文美人はどんな容姿か
美人とは、平均値の中で、より整頓された客姿をもつものとされているが、実はこれは、原始美人の基準なのである。文明社会では、逆に例外美人に魅かれることも多い。例えば、背の低い民族は背の高い人を、鼻の抵い民族は鼻の高い人にあこがれる。これを異国憧憬の美人というが、現在の日本人はハーフや彫りの深い顔立ちを美人としている。ところで縄文美人は、背が低くて丸顔で、鼻の低い、どんぐり眼をした女性であったと思われる。今日の私たちからすれば美しいと思えないが、原始社会の美人の基準からすれば、そうした客姿を連想する以外にないのである。

●髪やひげの手入れはどうしたか
縄文時代の遺跡からは、櫛やかんざしなどの遺物が出ている。縄文人の頭髪は、現在の日本人と同じく直毛でまっすぐ伸びるから、櫛やかんざしをさしても、すぐずり落ちてしまう。これを肪ぐには、どうしても髪を結束しなければならない。土偶にも、髪の毛を結った形のものがみられるので、縄文人は髪をきちんとそろえて結っていた、のではなかろうか。一方、ひげは、自然に生えるにまかせて、いたのではないかと思われる。というのもそこれまでひげを剃る道具が発掘されていないからである。毛はその部分を保護するために生えるのであるから、それを剃るというのは異常なことで、これは文明社会の行為である。

●どんなおしやれをしたか。
縄文人は、体に彩色を施していたようである。死体の周りに赤がのこっているところをみると、赤化粧をしていたのであろう。日本人の肌色は、薄赤茶色である。薄赤茶色の民族は、赤を最も美しいと考える。アメリカインディアンがそうで、彼らも顔を赤く塗っている。白人は白を美しいとするので、白い色を塗る。縄文人は、赤化粧をしたうえ、耳に穴をあけて大きなイヤリングをさし込んだり、髪を束ねて輪に結い、櫛やかんざしをさすなど、できる限りの化粧をしていた。入れ墨をしていたかどうかは確認されていないが、顔に模様の描かれた土偶が発掘されているので、おそらく、そうした風習もあったと思われる。いまからみれば、すべて次元の低い美の表現ではあるが、こうしだ装身行為は、純粋美の演出のためにのみ行ったのではなく、魔除け、あるいは性別、年齢、階級を表す別の意味もあったのである。

●なぜ抜歯をしたか
太平洋水域にみられる共通の装身行為として、肉体を傷つける行為がある。完全な肉体は、悪魔が入りやすく病気になる前提と考えられていた。あらかじめ人工的に肉体を傷つけておくと、悪魔が入ってこないということから入墨をしたり、傷痕をつけたりしたのである。その一つとして抜歯の風習があったわけで、不完全な歯をもつことにより二次的に悪魔が入ってこないという魔除け信仰にしたと考えられる。抜歯はどの歯でも行ったわけではなく、大歯と門歯に多く行われた。犬歯は人間の武器として大事な歯であり、門歯は口腔を保護する歯であるが、前からみて、毀損されていることが一目でわかり、それが魔除けにつながるという信仰にむすびついたのだと思われる。白歯は咀嚼用で、抜いたら死につながるので抜歯した例はない。縄文人がなぜ抜歯をやったかを一言でいえぱ、成人儀式だとか、魔除けだとかいう信仰から始まった風習だといえる。

●食人風習はあつたか
日本石器時代人に食人風習があったということを、最初言い出したのはモースである。大森貝塚の発掘によって、一定の長さに切った骨が出たことからそういっているのだが、ほかにも調理するために肉をそぎとった傷痕のある骨や、骨髄を抜いたものが出土している。したがって一種の食人風習があったことは認めなければならない。しかし、この食人風習は一般風習ではないと思われる。大部分の人骨がふつうに埋葬された状態で発見されていて、そういう傷を受けた人骨の数はごくわずかである。結局、人を食べたとしても、例外的に、飢饉状態の場合とか、肉体の一部を食べておけぱ死者の亡霊が迷わずに来世に行けるとかいう信仰が伴って、食べたのだと思われる。

●呪者になぜ女性が多いか
日本の原始宗教は、南方圏のアニミズムと北方圏のシャーマニズムの二つが重複しているが、縄文時代は、その遣物からみてシャーマニズム的要素が強い。シャーマニズムでは、呪者(シャーマン)が踊りや歌、呪文などをくり返して、自分で自分に催眠をかける、つまり、自己催眠によって一種の幻聴や幻覚を起こさせ、その幻聴、幻覚を神のお告げ、あるいは死者の言葉として伝えている。このような人工的な自己催眠をアークティック・ヒステリアというが、日本の女性は、このアークティック・ヒステリアにおちいりやすい。のちの邪馬台国の女王卑弥呼も、やはり「鬼道につかえ、よく衆をまどわし」たし、さらに時代がくだって、平安時代の風俗を書いた『春日権現霊験記』にさえも、巫女が神がかりしている図が描かれている。呪者にはアークティック・ヒステリアになりやすい性格が必要で、そうした性格は女性に強い。呪者に女性が多かったのはそのためである。自然発酵して、ブドウ酒やリンゴ酒ができる。また、ヤマノイモのような澱粉質のものは、かびなどが加わるとすぐ糖化するので、ある一定の温度で保存されると、発酵して自然に酒ができあがる。このように、天然現象としても酒の発生はあり得るので、縄文人も食料を加工したり、蓄えている間にその現象を知り、やがて人工的につくりあげていったと思われる。しかし、それがどういう酒であったかはよくわからない。古代には、酒は食うという表現があるように、飲料というよりは食べ物に近かった。酒が完全な液体となって飲まれるようになったのは、六世紀になってからである。したがって、縄文時代の酒も、糊状の食べ物的なものであったと想像される。

縄文時代の博物誌(樋口清之著)より抜粋

戻る