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インカ文明


●インカ文明 
14世紀の中ごろから16世紀にかけて,南アメリカのアンデス高原を中心として,北はエクアドル・コロンビア,南は,チリ・アルゼンチンにいたるまで広く影響を及ぼしていた古代文明。
【インカ帝国の成立】アンデス高地と太平洋側の海岸地帯においては,前5000年ごろ,すでに,リャマ・クイの家畜化を伴う,ジャガイモ・キノアの農耕が始まった。前2000年には,ピラミッド・神殿をもつ宗教センターが出現し,以後,チャビン文化・モチーカ文化・ナスカ文化・ティワナコ文化などが相次いで栄えた。このようななかで,アンデス全体に統合的な影響力をもった文明が三つ確認されており,最初が,前1000年ごろ栄えたジャガー神を核としたチャビン文化で,次が8世紀から12世紀にかけてティティカカ湖を中心に栄えたティワナコ文明である。そして,1200年ごろから,各地に王国・首長国が林立する地方分立時代に入り,14世紀の中ごろ,インカ族によって,各地の地方的政治組織を統合して,第3の統一的な文明がつくりあげられた。インカの初代皇帝はマンコ=カパックといわれているが,おそらく伝説上の人物であると考えられている。初期のスペイン人クロニスタの採集したいいつたえによると,13世紀ごろ,マンコ=カパックがインカ族(またはケチュア族)をひきいて南ペルーのクスコに定住し,周辺の野蛮な生活を送る原住民を支配下に置き,文明化したという。しかし,実際インカ族がたどった経緯は,伝承が語るほど栄えあるものではなく,先住の部族との軍事連合のなかで従属的地位を占め,初期のインカ族の長は,シンチ,つまり軍隊の長にすぎなかった。インカが,クスコから急激に膨張し,帝国としての形を整え始めたのは,15世紀はじめの第9代パチャクテックの時代からである。アンデス山地の中央部を占めていた大部族,チャンカ族を打ち破ると,その広い領域の政治集団をすべて支配下におくことになった。その息子,トゥパ=ユパンキはさらにその領土拡張政策を推進し,エクアドル地方・チリ・アルゼンチンの北部もインカの領土となった。トゥパ=ユパンキによって,ビルカスワマン・カハマルカなど多くの町が建設されたといわれ,ミティマエと呼ばれる異族婚を行い,積極的に移住した地方の掌握を行った。インカ帝国の基本的な統治形態はこの時期に確立されたといえるだろう。1493年,トゥパ=ユパンキの死によって帝国もすでに最盛期をすぎ,次のワイナ=カパックの代には,帝国の征服は終わりをつげ,その版図は,南北の距離4,000km,面積は100万平方kmに達した。
【インカの政治・社会組織】インカ帝国は,ケチュア語では,タワンティン=スーユ(四つの地方)と呼ばれ,首都クスコを中心に,東西南北の延長線によって,4つの地方に区分されていた。各スーユはいくつかのワマン(県)からなり,ワマンは,1万人の集団ウニュの集合であり,また村の人口は,10人・100人・1,000人ごとに集団としてまとめられていた。それらの長には,インカ以前からの首長が任命されて,クラカと呼ばれる貴族階層を形成し,スーユやワマンの長には,インカの血をひく上層の貴族があたった。タワンティン=スーユの政治構造は,絶対的な権力者である皇帝を頂点としたピラミッド型の構造で,膨大な数にのぼる被征服地の平民を,クラカ・インカの貴族階層によって統治した。しかし,土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し,貴族ですら私有を認められなかった。租税は,アンデスに古くから存在していたアイユウを基礎に2種類に分かれていた。一つは,アイユウの土地を,インカ・太陽神・人民の三つに分割し,インカと太陽神の土地に対する労働を行わせ,その生産物を徴収するもので,もう一つは,ミタと呼ばれる臨時的な賦役で,道路・建築・鉱山・戦争のために,アイユウの成人男子を徴集した。こうして集められた生産物は,計画的に再分配され,寡婦・老人・孤児などに支給されたり,飢饉などの非常時に放出された。地縁的なアイユウの絆からまったく切り離されたものに,ヤナコーナ・アクリャコーナ・ママコーナの3種類の集団がある。ヤナコーナは,地方のクラカの監督下から離れ,直接,皇帝・役人などインカ貴族に仕える終身従属者であるが,奴隷とは異なり,身分の高いものに直接仕えることから,のち,クラカと同様の富と威信をもつものも出た。アクリャコーナは,各地方の未婚の女性のなかから選ばれた女性で,ママコーナとともに太陽神の祭祀に携わった。しかし宗教的なつとめのほかに,太陽神の家畜からとれる毛を用いて,もっぱらあらゆる種類の織物・衣服を製造し,インカ帝国の統制経済の中心的役割を担っていた。このような体系的な政治・社会組織の存在は,インカ帝国が中央集権的で,均質な構造を備えた独裁国家であったと推測されるが,実際のインカ帝国はアンデスに自然発生していた氏族集団,アイユウを基にクラカを掌握し,アンデス諸民族の伝統的社会秩序を統合する過渡的な段階にあったものと思われる。
【インカの宗教・文化】インカの皇帝は「太陽の御子」と呼ばれ,太陽神はインカ帝国の宗教的中心として重きをなしていた。アンデスに広く信仰されているビラコチャ(創造神)は,太陽の父と考えられ,最高の神格とをもち,太陽は,月・星・雷などの神格ともに祀られた。その宇宙観は,メソアメリカのアステカ文明やマヤ文明ほど複雑ではないが,太陽暦にもとづく毎月の儀式がはっきりと制度化されている。インカは文字をもたず,帝国の人口・家畜数の調査・記録・租税の徴収など,統治の手段として,キープと呼ばれる結節縄が用いられた。土器・織物・冶金・金・銀の細工技術は,ほぼ,インカ以前の技術を継承したものであるが,独自のスタイルをもち,北はエクアドルから,南はアルゼンチンまであまねく影響を及ぼしたものと思われる。インカは鉄を知らなかったが,それにもかかわらず,非常に高度な石工技術をもち,巨石をすきまなく組み合わせた大建造物を残している。また,土木工事も発達していて,インカの王道として有名な,二つの帝国縦断道路をつくり,迅速な情報の取得と,命令の伝達をはかった。高原道路は,コロンビアから始まって,ペルー・ボリヴィアを抜け,アルゼンチンのツクマン,さらにチリにいたるもので全長5,600kmにおよぶものである。海岸道路は,北はトゥンベスを起点とし,砂漠を縦断してチリに入り,高原道路と連絡するもので,全長4,000kmにおよんでいる。公道には,各1日行程の場所に,タンボという宿場兼食料・必需品の貯蔵庫がおかれ,公用の旅行者の便宜に供された。インカ帝国が広い地域にわたって,一応その影響を及ぼすことができたのは,この王道によるところが大きいといえる。
【スペイン人の侵入と帝国の滅亡】ワイナ=カパックは,エクアドルの制圧に力を注いだが,そのため,帝国内部では,クスコを中心とする支配層と,エクアドルのキトを中心とする支配層の2派に分かれて対立がおこりはじめた。そのようななかで1525年,皇帝が没すると,母親の違う二人の息子,ワスカルと,アタワルパのあいだで後継者争いがおき,帝国は,クスコ側とキト側で2つに分裂して戦争が始まった。1532年,アタワルパが勝利をおさめたその直後ピサロ,F.にひきいられたスペインの征服者がペルーに侵入した。1532年11月16日,アタワルパは,カハマルカにおいてスペイン人に捕えられ,事実上インカ帝国は崩壊した。スペイン人は首都クスコを占領し,現在の首都リマを建設し,その後,数百年にわたり,植民政策を行った。インカは,そののち,クスコ北西の奥深い谷間にたてこもり,数十年にわたり激しい抵抗をつづけたという。